東日本大震災から12年。忘れない為に、その日を知らない子供達のために。当時の体験談。

備蓄

今から12年前。

思い出したくない方は
この記事を読むことをご遠慮ください

当記事、筆者のマメカの住む地域も被災しました。

幸い、知り合いで亡くなった方はいませんでした。

正直、この記事を書くことも悩みましたが
忘れてはいけないこと

そして
当時を知らない子供達のためにも
記事に残しておこうと思います。


当時、マメカは結婚しておらず
今の夫と同棲を始めて数か月の時でした。

発生したときは、仕事をしていて
接客業だった為
まずはお店の入り口のドアへ走り、お客様を外へ避難させるルートを確保しました。

その瞬間のことは
今でも怖いほど、覚えています。

建物が、本当に崩れ落ちるのではないか、と思うほど
頑丈な建設のお店の建物ですらガリガリといったような
なんとも言えない地響きでしばらく揺れました。

地面が割れるのではないかと思うほどでした。

お客様の安全を確認し、自身も建物の外まで避難しました。

平屋のお店だったので
これが2階にいた場合は
揺れている中の避難は絶対に不可能です。

外へ出てからも
まわりの建物が波打って揺れているのがわかりました。

あれほどの恐ろしい揺れでも
崩壊しない日本の建築が、いかにすごいものか。

揺れが収まってからは
店内の様子を確認。

まずお客様はケガが無く
従業員も全員無事でした。

ワイングラスとシャンパングラスが
何十個も割れていました。

他の被害を確認する間もなく
また揺れが起こる。

外へ避難する。

それを何度も何度も繰り返しました。
6回以上は繰り返したと思います。

お店は営業を停止し
各従業員、家族の安否確認や
停電の為、ワンセグで情報収集をしました。

大きな発生から40分後くらいの状況です。

マメカ自身も
実家や当時同棲中だった、現夫へ電話をかけようとしても
全く繋がらず。

メールを送っておきました。

当時、実家からも安否のメールをマメカを送っていたらしいのですが
実際にそのメールが届いたのは翌日。

実家からは「なんですぐ返事をくれなかったんだ?」と後日、怒られましたが
電話もメールもすぐには通じない
という状況だったのです。

マメカがいた職場は
海からは若干離れていたので
津波の心配は、その当時していませんでした。

まさか、海に近い地域ではあんなことになっているとは
その当時・時間帯では全く想像していませんでした。

それを知るのは発生の3日以降だったと思います。

当日は、営業できる状況ではなかったので
夜の予約のお客様へキャンセル連絡をし(電話が通じるまでかける。結局連絡取れなかったお客様もいらっしゃいました。→こんな日にお店にくるお客様もいないだろうと判断。)
お店を閉めて従業員は帰宅し、待機となりました。

発生から1時間半後です。

マメカがまず一番に行ったのは
「ガソリン」を入れる事。でした。

当時はアパート暮らしだった為
実家の安否もわからず
まずは、実家に確認しに帰ろうと思ったからです。(車で1時間ほどの場所)

一番に、ガソリンを入れていて正解でした。

それから3時間後には
ガソリンスタンドは長蛇の列で
入れられたとしても満タンではなく
数量制限分となっていました。

アパートに帰ると
同棲していた現夫も帰宅していて
安堵の気持ちになったのを覚えています。

もし、あの時ひとり暮らしのままだったら
恐怖と不安で冷静でいられなかったと思います。

数時間後、(地震発生3時間後には、)実家にも電話が繋がり無事を確認できました。

その為、実家へ帰宅することは控え
アパートで現夫と過ごすことにしました。

まず、電気は止まっていたので
(プロパンガスは使えた)ガスで食事の用意。

カップラーメンや袋ラーメンは数個あったので
夜はそれを食べて過ごしたと思います。

情報は、停電でテレビもスマホ(充電節約の為)も見られず
ラジオも持っていなかった為
遮断された状態でした。→今思えば結構、危険だったと思います。

数時間置きに、車に行ってラジオを聞いて
情報収集していました。

発生当時は、何度も何度も余震が続き(1時間に2回以上)
あまり寝られなったのを覚えています。

夜が明けて
まずは、食料調達と思い、近くのコンビニへ行くと
もう、棚には数個の食品(お菓子類系)しかありませんでした。

もちろん、おにぎりやカップラーメン、お弁当は「0」でした。

結局、何も買えませんでしたが
レジも、停電で現金のみ対応だったと思います。
(うる覚えでスミマセン)

このあたりから、12年前の為
記憶が曖昧です。

当時、勤めいた会社からは連絡が来て2日休業で休みとなったと思います。
(停電が回復するまで)

身の安全の確保をするように上司から連絡があり
スーパーが開く時間まで待っていた記憶があります。

スーパーが開いてから、食品を買いに行きましたが
やはり、棚にはお菓子類のみ。

とりあえず、買えるものを買って
あるものを食べて過ごしました。

停電は3日後くらいに解消されたと思います。

当時は大人2人だったから
なんとかなったモノの
子供がいたら、食べ物も飲み物も足りなったと思います。

寒さは、毛布をかぶって過ごしました。

反射式ストーブを持っていなくて
灯油ファンヒーターがあっても停電の為使えず、暖房は無で過ごしました。

日中は、とにかく情報収集でしたが
スマホを充電できなかったため
車のラジオのみ。

日本でどれほどの被害が起こっているのかを
知るのは、停電解消後の3日後のことでした。

テレビが見られるようになってから
信じられないことばかりを知ることに。

海の近くの地域のことや
福島のことや。

何もできない自分が
悔しくて悔しくてたまりませんでした。

停電回復後は、スーパーやコンビニも営業しはじめて
品数も、徐々に増えて、食品も徐々に買えるようになっていきました。

実際にマメカ自身
災害の影響をうけたわけではないですが
少しでも、その当時の状況が
伝わればなと思い記事に書かせていただきました。

子供たちは、保育園や学校でいろんな当時の写真や動画を見ています。

避難訓練もしっかり身につき、親が言わなくても
家の中で地震が起こると
体が反応し、テーブルの下にかくれます。

マメカ自身も、当時のことを何度も何度も子供達へ伝えています。

一番大事なのは「知る事」だと思っています。

もし、あの時、
海の近くだったら。

もし、あの時、
避難しなければ行けない状況を知らずにいたら。

誰かが助けを求めていたら。

まずは、情報。


今はSNSもありますが、
当時のようにすぐ
情報発信ができなかったり
繋がりにくさがある場合も。


備えられるものは、備えておこう。

今は、守らななければいけない
子供達がいます。

震災を伝えるための施設もあり
何度も連れて行っています。

当時の生々しい映像や写真が残してあります。

忘れないよう
今後も伝え続けていきたいです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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